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ゆー and みー with104

20代専業主婦の育児、生活、漫画と本の話。嬉しいことも苦しいことも笑いに変えて前向きに生きたい人へ。

文芸批評には何の意味がある?

先日、灰谷健次郎の批評本を借りて読んでみました。

黒古一夫灰谷健次郎ーその「文学」と「優しさ」の陥穽』という本です。

すべては読めませんでした。

好きな作家を否定された、批判されたことに対する不快感はないのですが、批評するにしても、なんだか言葉選びが非常に大人げなくて不快なのです。


また○○をダシにして××を語るとは

うっとうしい

まるで、上司の悪口を言いまくっていた昔の私だ。

これが学生の書いた批評ならば、こんなにたくさん書けてすごいなと思えるかもしれないが、大の大人だ。

全部読まなかった。読めなかったという感想を述べたならば、「逃げている」なんて言われそうだ。


私自身も、灰谷健次郎作品は「性善説」だなぁと思いながら読んできたし、彼の掲げる教師像をすべての教師に求めてしまったら、必要なだけの教師を集めることは絶対にできないと思っている。

学校や生徒より家庭が大事な教師も当然いて、それを絶対悪とは思わないし、特別支援学校は必要だと思う。

このように、彼の意見すべてを肯定しているわけではないけれど、究極の理想を掲げたメッセージ性の強い小説に対して、「そんなの無理だよ」と一蹴するつもりもない。

一個人の意見を、小説にして発信する。
そのために創られた登場人物や自己の経験に基づいたテーマが、現実的ではなくて何が悪い?

たしかに、小説を読む人間が、そのなかに書かれた一部分を事実として受け取ってしまうことはあるかもしれない。
でも、それはフィクションだと、きちんと断りがあるではないか。


作者が自由に創作しても良いはずの小説で、現実のこの部分を踏まえていない、という批判はどうなの?

まして、作品とは関係なく、作者個人の言動にまでケチをつけ、本にする必要性って何?


私にはわからないのです。

小説って基本、みんな娯楽の一環として読んでいると思います。

誰かに強制されるわけでもなければ、娯楽に思えない人は小説を読まないでしょう。

娯楽としての読み物にケチをつけるのは誰のためなのでしょう?

娯楽を超え、生き方に大きく影響を与えてくれるような作品との出会いもあります。

そんな単なる娯楽ではない読書体験を与える小説でさえ、批評の意義がわかりません。

作者自身の文章力向上のため、評価としての批評なら理解できます。

でも、読者は、大学で研究対象にでもしない限り批評を読む必要はないのでしょうか。

これに関しては言い切れませんが、読んだ私はなかったと感じています。

それとも、別の批評を読んでいたならば、ここまで拒否反応はでなかったでしょうか?